二人の切っ先

糸柳和法

 宇木と付き合い始めてから三年が経った。彼女と同棲する部屋の窓から外の景色を見やると、高い日差しの中を川沿いの桜並木が今にも咲きそうにつぼみを膨らませているところで、花見の下見をしているのか、若い男が辺りを眺めながら歩いている。春の風が吹き込み青い草の香りがして、部屋の奥では、彼女がキッチンで音を立てている。

 宇木と共にこの桜並木を歩いたことは何度かあるが、最も印象に残っているのは去年の今頃のことだった。桜は満開を少しばかり過ぎたところで、はらはらと花びらが散っていて、辺りには出店が並び、二人でただ黙ってそこいらを歩いていて、そこへ通りかかった、前を見ずに走る子供が、手にしていたたこ焼きを、彼女のストッキングに包まれたふくらはぎへ向かって取りこぼした。彼女の顔がほんの僅かに歪むのを辛うじて認めることはできたが、すぐに冷静な顔へ戻ると手で素早く汚れを払い落とし、子供に涼やかな顔で「気を付けてね」と言ったきり、あとはハンカチを取り出して軽く拭いてから、「じゃあ、行こっか」と言って歩き出そうとする。彼女はいつもそうで、薄く笑い、薄く怒り、または薄く沈黙するばかり、その時も彼女は軽く火傷していたのだったが、そぶりも見せず、その怪我を俺が知ったのは翌日のことだった。

 窓から桜が膨らみかけているのを眺めていると、宇木が「荒川さん、そろそろご飯ができるから」と言う。もう正午を過ぎてしばらくが経つ。振り向くと、キッチンで彼女が包丁を片手にこちらを向いていた。包丁。俺は平静を装って「今行くよ」と言って歩きだすが、床へ置いたままになっていた雑誌を踏み、滑って尻餅をついた。「どうしたの」という声と共に包丁を持ったままの彼女がやってくる。俺の頭の中に、彼女が包丁を取り落とし、俺の手首へ突き刺さっているところが浮かんだ。包丁が近付いてくる。俺は座り込んで彼女から目を逸らしたまま、「大丈夫だよ」と返す。「本当に大丈夫なの」と彼女の声が聞こえる。「ああ、大丈夫だよ」

 彼女が食事の支度を終えた食卓へ、ようよう立ち上がった俺が座ると、彼女はいただきますと言って、白米、味噌汁、お新香の隣に並ぶニシンの焼き魚へ箸を伸ばし始めた。窓から風が吹いてきて、食事の湯気がゆらいでいる。自分の目の前も湯気のようにゆらいでいる気がした。平然と食事を続ける彼女の前で、俺の手から箸にじっとりと湿り気がうつっていた。

 彼女が言う。「荒川さん、最近疲れてない……あまり仕事の話もしてくれなくなったし、時々様子がおかしいと思うの」

 彼女の顔を見ることができないまま、豆腐の入った味噌汁を啜った。彼女はそれ以上何も言わず、二人で黙々と食事を済ませた。

 俺は自分の分の食器を片付けて、すぐに台所へ向かうと窓のサッシを閉じた。宇木が包丁を持って立っている様子を思い出して、すぐに流しの洗っていない包丁を握り、思い切りまぶたを閉じた。包丁が宇木の顔面を切り裂く様子が浮かんで、胸が高鳴った。動悸がする。眼の周囲がチカチカして、まともに前が見えなくなる。宇木が俺の後ろに近付いてくる足音が聞こえる。「ああ、すぐ洗おうと思って」と言って彼女は横から俺の握っている包丁を受け取ろうとするが、俺は離さない。「どうしたの、気分が悪いなら無理しなくていいから」と言ってこちらを見つめているようだった。握っている包丁をゆっくりと下ろして流しへ置く。「コンビニに行ってくる」と吐き捨てるように言い残すと、少しでも気取られないように、努めてゆっくりと部屋を出た。恐らく不審に思われたことだろう。玄関の扉が閉まる音がする。動悸が止まらない。しばらくは扉の前で深呼吸を続けていた。

 コンビニエンスストアでしばらく雑誌を立ち読みして時間を潰すしかなかった。宇木は包丁を片付けてくれただろうか。ページをめくる手がぬるぬると滑っていく。喉が乾いて呼吸をする度に痛む。そのまましばらく立ち読みを続けてから、ペットボトルの茶を買って蓋を開け、一気に飲み干して、それでようやく喉の痛みは癒えた。


 翌日、正午前に出社したオフィスは、白い壁にいくつかの窓があり、時計が掛けられただけの質素な作りになっている、そしてそこに人間をごちゃごちゃ、パーティションで区切って押し込んでいて、入り口には研究開発部門と書かれたプラカードが下がっている。俺は自分の席にふかぶかと座り、イヤホンを耳に入れ、周囲を遮断した。特に特徴のないこのオフィスの作りは邪念を払うのに丁度よい、個人の席に電話は置かれていないし、話し掛けてくる人間も普段ならば滅多にいない。

 仕事に乗ってきたところで突如、上司が肩を叩いてきて、イヤホンを耳から外す。「すまんな、グループウェアに予定は入れておいたんだが、直前だったから気付いてなかったか」と上司が言い、俺は向き直った。「確認してませんでした。会議ですか」「いや、面談だ。今から移動してもらって大丈夫か」

 俺は頷いて、立ち上がると、白い壁の廊下を上司についていった。

 引っ越してきて間も無いオフィスは、かすかに内装の化学的なにおいがした。人間のために作られ、それでも人間味を感じさせないこの作りには感情的な泥臭さが無い、その、誰にも邪魔をされることがない非人格的簡素さに、俺は安心する。俺を追い詰める人間が誰もいない。この壁はひっそりと佇むだけで、俺の不安をまったく掻き立てることがない。

 会議室に入って二人が椅子に座った途端、上司はいきなり話の核心を切り出した。「来月から君に主任になってもらうことになったんだ。構わないかな」俺の目が少し泳ぐ。「……僕がですか」「後で詳しい連絡がいくと思う。ちょっと早いけど、おめでとう」上司の顔が微笑している。しばらくのあいだ沈黙が続いた。「……口止めのつもりですか」と俺が言うと、上司はわざとらしく、少し驚いたような顔をする。「何の話かな。願ってもない話だろう。不満がないなら話は終わりだけど、それでいいかな」俺は考えがまとまらないまま返事をした。「わかりました」

 自席に戻って複雑な気持ちに襲われた。上司は何を考えて俺の昇進を決めたのだろう。宇木はきっと喜んでくれる、だがそのために昇進を受け入れてもいいのか。頭の中がきりきりして、断ったなら宇木はそれを知った時に落胆するに違いないことを思い肋骨の内側が苦しくなり、視界が少し暗くなった。今ならまだ断ることもできるだろう。上司は俺を自分のそばに置いて、監視しようとしている。全てを知っているのは上司と俺だけであり、上司も俺のことを恐れていて欲しかった。

 一日が終わり、俺は答えを出して上司に伝えた。俺は宇木の笑わない言葉を選択できず、昇進を受け入れた。

 家に帰ると宇木が夕食を作って待っていた。昇進の話は、同時にうまれる面倒な立場のことを考えて、伝えることができなかった。ここ最近は食事の味がよくわからない。俺はフキの味噌汁を啜りながら、宇木の作る食事はいつも旨いよ、とだけ告げた。


 上野に着くと少し汗ばむ日和で、駅からしばらく歩いた場所にあるジュエリーショップに向かいながら、ところどころ額を拭った。目的の店の自動ドアをくぐると、店内のケースには様々な宝石が並んでおり、しかしその殆どの名前がわからない。少し身がこわばって、体の緊張を感じた。二人いた店員は両方とも他の客の対応をしている。少しずつガラスケースに近付くと、その縁に触れ、そっとなぞってみた。ひんやりとした感触が指先に伝わった。中にはいくつかの宝石が並んでいる。店員に余裕ができるまで、しばらくそうして宝石を眺めていた。店内の明かりが宝石に反射して、ちかちかと光っている。

 店員が歩み寄ってきた。「どのようなものをご希望でしょうか」「あ、ええ、婚約指輪が欲しいんですけど、どうやって選んだものかわからなくて」「それでしたら……」

 店員がする説明は、装飾品のことが全くわからない自分にはあまり興味の持てないものだった。一番シンプルな銀に、宇木の誕生石であるダイヤを乗せたものにしようと思ったが、値段が張るものなので後日買いに来ると告げた。落ち着いて周囲を見渡すと、客は他にカップル三組がいる。やはり男が女にプレゼントするものを選んでいるのだろうか。貯金と指輪の値段が頭の中を回った。宝石の輝きが頭の中の混乱そのもののように明滅を繰り返している。


 いつものように昼前に出社すると、ウェブブラウザからグループウェアを呼び出し、上司と自分の参加する予定を「面談」という件名で登録した。上司はまだ出社していないようだった。上司を前にすると俺は動悸が早くなり、胸に手を当てて目を閉じ深呼吸をして、それでようやっと落ち着いていく。しかし今は心臓が大人しくなる様子を見せない。眼を閉じる、しかし微笑した上司が浮かんで見えるだけだった。

 動悸が収まらないうちに上司が出社してきた。挨拶を交わしてしばらくすると、自分の席に座った上司が立ち上がり、こちらにやってきて俺の肩を叩いた。「昨日の件でまだなにかあるのか」と言われ、俺は取り乱しそうになる。「あ、いや、違います、個人的な話です」「仕事が終わってからじゃ駄目かな」「他に人のいない場所ならどこでも構いません」「そうか、じゃあ個室のある店を知っているからそこで話をしよう。夜の九時以降なら予定が空いているから、それからでいいか」「わかりました、僕も予定を空けておきます」

 その一日は気が気でなかった、もはや仕事は全く手に付かず、何度も胸を撫でて気を落ち着けようとするが、その度に上司の微笑が見えた。ただ座って苦悩と戦うだけの時間が過ぎ、夜の九時を迎え、無為な一日になってしまったことを後悔した。個人的な用事であっても会社で面談したいと言えばよかったのだ。

 九時をしばらく回って最後の会議から戻ってきた上司が俺に声を掛けた。既にまとめてあった荷物を持って席を立ち、オフィスを出ると、タクシーに乗って上司は行き先を告げた。「何が気掛かりなんだ」と上司が軽い調子で言う。「ここでは言えません」と言って、口の中がからからに乾いていることに気が付いた。俺はタクシーの運転手を見ると、こちらに無関心そうに運転を続けている。

 上司の紹介した居酒屋の個室で二人になると、上司が生ビールを頼み、俺はウーロン茶を頼んだ。上司が再び言う。「何が訊きたいんだ」

 俺は咄嗟の答えが出なかったが、しばらく俯いたまま考えをまとめ、「僕はあの件を誰かに言うつもりはありませんよ」と、少し強く言った。すると上司が即座に言う。「そんなことはよく知ってるよ」「でも今回の昇進は僕を監視するためのものでしょう、この四半期の自分の実績は、これまでと違ってあまり秀でたものではありません」「そんなことはない、君はよくやってるよ」

 上司が微笑している。俺は答えに詰まってしまった。

 上司が電子式の注文機器からいくつかのつまみと、生ビールをもう一杯頼んだ。「いいじゃないか、君も確か、結婚を考えている相手がいるんじゃなかったか。給料も当然増える、生活もより安定したものになるし彼女も喜んでくれるんじゃないのかな」しばらくのあいだ、静寂が部屋を包んだ。俺は急に疲れを感じて、自分の生ビールを注文した。上司が言う。「俺達にはこれからがあるんだ。昔のことは忘れよう」

 それから上司と特に会話はしなかった。ただ二人で黙って飲んでいた。終電が近付くまでに、かなりの量のビールを飲んで、帰りがけに駅のホームで嘔吐して、ワイシャツを少し汚してしまったため、宇木に見付からないように多目的トイレで汚れた場所を軽く洗ってから帰宅した。宇木はかなり酔っている俺をしばらく介抱し、布団に寝かしつけた。俺は回らない頭でずっと上司の微笑のことを考えていて、その思惑が全くわからなくなってしまったと思った。これだけ酔っているのに、しばらくは眠ることもできなかった。やっと寝入って翌日には、不快な、腐敗した肉を噛んだような感覚が口の中にあった。


 先日訪れたばかりのジュエリーショップに再び足を運んだ。前よりも気温は高い気がするが、それだけではない、嫌な汗がじっとりと皮膚を包んでいる。自動ドアが開くと、中からは少しだけ冷たい風が流れ出してきた。店内は何も変わっていないように見えた。店員も前に来た時と同じだった。俺が注文しようと思っていた指輪も、サンプルがそのままガラスケースの中に置かれている。店内に入ると、俺も同じように少しずつガラスケースに近付いていって、その縁をなぞった。今度はすぐに店員がやってきた。

 俺が店員に顔を向けようとしたところで店員の方から話し掛けてきた。「以前お越しいただいた……」「あ、覚えていただいてましたか。前に見せてもらったものを買おうと思うんですが」

 その後は、銀の指輪に宝石に彫る名前や、細かいディテールなどを決めて注文した。店員の物腰は常にやわらかで、安心出来るものだった。納期は二週間後ということで話を終えて店を出た。家に帰る電車の中から、はらはらと散っていく桜が見えて、少しずつ春が終わっていくのだと知った。桜の木には若い葉がいくつも生えている。これからは日差しが少しずつ強くなり、その恵みを新たな葉がおおきく受け止め、次の花のための力をたくわえるのだ。

 週末の朝に目を覚ますと、隣に寝ていた宇木はもういなかった。眠りすぎた、既に昼前になっているようだった。目をこすりながら寝室を出たがリビングにもいない。俺は台所で包丁を取り出して、そっと刃先を嗅いでみた。包丁。研いだばかりなのだろうか、鉄のにおいがする。血液のにおいに似ていると思った。料理をするのだから血液が付着していても不思議ではない。俺は包丁が血液にまみれている様子を想像した。人体に突き刺さり、血液が付着し、鉄、特に錆のにおいが強く漂ってくる。想像したというより思い出したというべきだろうか。刃先を暫く眺めていると、宇木に向かって突き刺さり、沢山の血液がこぼれていく様子が浮かんで、心臓がどくんと音を立てた。

 俺はどうかしているのだと思った。平穏な現実が、血液の世界へ変わっていく。

 玄関の方から扉を開ける音が聞こえ、急いで包丁をしまった。気付くと脈が高鳴っている。宇木がリビングの扉を開けて俺に気付くと、「おはよう」と声をかけてきた。俺が「おはよう」と返事をすると、「ちょっとお買い物に行ってたの。今からお昼の用意するね」と言う。「昼は家で食べて、夕飯は外に食べに行こう」「あ、お夕飯の食材も買ってきちゃったんだけど……」「また明日の分にすればいいよ」と言うと宇木は少し迷ったような顔をして、「わかった。じゃあお夕飯は外で」と言った。

 昼食は茸のソテーと白米、お新香、そしておそらくは朝に彼女が一人で口にしたのであろう味噌汁だった。食べ終わると宇木が買い物のついでに借りてきたビデオの映画を見て、それからしばらくは本を読むなりインターネットを見るなりして、日が落ちてから二人で家を出た。空が少しずつ暗くなっていく。街並みは電灯が点き始め、夜の景観になりつつあった。

 俺が彼女を連れていった店は以前にも何度か行ったことのある中華料理屋で、あらかじめ料理を決めて注文を済ませてある。「私は初めて来る店だけど……」と宇木が言う。「ここの角煮が旨いんだ」

 いくらかの雑談をしながら食べ終わり、デザートの皿まで下げられてから話を切り出した。「俺は雰囲気を作るのが苦手だからさ、こんな形で見せられても困るかも知れないけど……」と言って指輪のケースを取り出した。宇木の顔が徐々に緩んでいく。「あ、これ、あはは、あはははは」と、鈴が鳴るように静かに笑った。「どうして笑うんだよ」「だってさあ、流石にもうちょっと場所考えようよ」「角煮旨かっただろ」「美味しかったけどそうじゃないでしょ、もう」と言う彼女の顔は緩んだままだった。「で、なにこれ、ただのプレゼント……じゃないよね」「婚約指輪」宇木の顔が僅かに跳ねた。俺は箱を開ける。「ほら、名前も彫ってある」「……うん」「俺は真剣だよ」「うん、わかってる」「実はこないだ、昇進が決まったんだ」宇木の顔が再び跳ねた。「えっ、どうして教えてくれなかったの」「びっくりさせようと思って」「そっか、うん、確かにびっくりしたよ」宇木が指輪を箱からそっと取り出し、舐め回すように眺めている。「あ、本当だ、名前が彫ってある」

 宇木の顔が微かに笑っている。俺はしばらく宇木の喜ぶ様子を眺めてから、ずいと身を乗り出した。宇木がこちらに注目する。「結婚してくれないかな」


 宇木が先を歩いている。桜並木はすっかりと葉に埋め尽くされ、桜の花びらは春の雨に流されていったのか、もうどこにもその痕跡を認めることができない。足元からは土を踏んだ感触が伝わってきて、宇木はその感触を味わうためか、下を向いてゆっくりと歩いている。日差しは随分と強くなって、長袖では少しだけ汗ばむようになっていた。

 宇木とはこうして並木道を歩きながら、時々はとりとめのないことを話して、時々は静かに連れ添って行く。こうした時間が人生には必要なのだと思った。宇木は少し歩く速度を落として、俺と横に並んで言った。「私が結婚する気だって言ったら、お母さんがね、荒川さんとなら結婚してもいいんじゃないかって。今度改めて挨拶に来て欲しいの」宇木はどんな表情をしているのか。「うん、そうか」と宇木の顔を見ないまま前を向いて返事をした。

 家に帰ると、今日は俺が料理をしようと言った。宇木が不安そうにこちらを見ていたが、不慣れながら包丁を扱った。包丁。俺はまた宇木の顔面が包丁で切り裂かれている様子を思い浮かべ、胸が高鳴り、急いで目を閉じた。少しだけ手が震えている気がした。結婚するのだから、自分の身は綺麗にしなければ、いつまでも包丁に怯えているわけにはいかない。新玉ねぎを刻む不規則な音が響いていて、いくら切ってもぶ厚い断片が増えるばかり、焦っているだけでまるで進んでいないように見えた。まな板の横には乱雑に切られた野菜が並んでいた。台所の空いた場所にはカレールウと深い鍋が置かれている。

 刻んだ玉ねぎをじっくりと炒めているあいだ、宇木は居間で雑誌を読んでいた。包丁は既に洗ってしまってあり、俺の精神は落ち着いている。鍋の中からほんの少しずつ甘い香りがする。食事を作る楽しみで俺は、自分を不安にさせる物事を忘れようとしていた。見たくない現実に少しずつ土をかけて覆い隠していくように、俺は現実から逃避している。鍋に野菜と水を加えて煮込みながら灰汁を取り、火を止めてカレールウを加え、やがてあたりにはその香りが充満していた。

 二人でカレーライスを食べながら、話題は宇木の母親の話になった。「それでね、荒川さんはちょっと抜けてるところもあるけど、そこが可愛いってお母さんが言うの」「へえ、喜んでいいのか微妙な話だな」「そうだよねえ、娘の彼氏を可愛いとか言われてもね」宇木は少し不機嫌そうに言う。「私は荒川さんの、安定したところが好きなの。大きな失敗をしない、誤りのない人生。今度昇進するんだよね、やっぱりそういうところが評価されてるんじゃないかな」

 宇木から自分の評価を詳しく聞いたのはこれが初めてかも知れない。誉められた気はしなかったが、結婚する前に言っておきたかったというところだろうか。「ありがとう、でもどうだろうな、宇木のお母さんが言うように抜けてるところもあると思うよ」宇木が更に不機嫌そうな顔をした。「ちゃんとしてるよ。変なところなんてない。じゃなかったら私は結婚なんてする気にならない」と大きな声で言う。心を表に出すことの殆どない宇木が、突然感情を込めて叫び、少し気圧された。そこまで強く言うことなのだろうか、俺にはわからない。「……そうか」「うん、そうだよ」


 次の週末になり、早速宇木の実家に挨拶に向かうことにした。宇木は前もって実家で話すことがあるからと昨日、先に新幹線で向かってしまった。宇木の実家まではそこまで離れていない、俺は一人でバイクを使って向かうことにした。空からは強い日差しが照り付けていて、皮のライダースーツを着るとかなり暑かった。宇木の実家に着くまでにかなり蒸れることだろう、着いたらすぐにシャワーを借りようと思った。

 バイクに跨って高速に乗り、しばらく走っていると、前の方でクラクションの音が聞こえた。目の前にいるトラックの荷台から、パイプらしきものが大量に落下している。さっと血の気が引いた。避けたり緊急停止したりするだけの距離的余裕が無い。視界が急に色を失った気がした。かなりの速度で走っていたにも関わらず、パイプに少しずつ近付いていっているように思えた。最初のパイプを踏んだ時、想像以上の刺激がハンドルに、次は尻にきた。パイプはまだまだ落ちている。断続的にがくがくと全身を揺すられ、やがて体勢を崩してバイクごと倒れこんでしまった。まずは足が地面に触れ、それから腰が、肩が、頭が、アスファルトに強く叩きつけられた。


 目を覚ますと、細かな模様のある白い天井が見えた。全身が痺れたような、妙な違和感を覚えて周囲を見渡そうとした。首は全く動かなかった。眼球を動かすことしかできず、天井の端をなんとか見ることができる程度で、それ以上、何の情報も得られなかった。頭がぼんやりとしてものを考えることができない。天井を眺めることは退屈だと感じたが、そもそも他の何かをしたいという意欲を感じないのだ、しばらくはこのままでもいいと思えた。そうしているうちに、何も音が聞こえていないことに気が付いた。何も音が鳴っていないだけかも知れなかったが、不思議と耳がおかしいのだという確信があった。

 意識が曖昧なまま、しばし時間が過ぎた。やがて自分でも気付かないうちに目を閉じて、そのまま眠ってしまった。


 次に目を覚ました時には横に看護師がいた。前の覚醒とは違って自分の意識がはっきりと感じられた。俺は少しだけ首を動かそうとしたが、まるで動かない。日が落ちかけているのか、部屋の中はやや赤く染まっていた。俺が起きたことに気が付いた看護師の女が、こちらに話し掛けてきている。「あ、意識戻りましたか」というようなことを言っているように聞こえたが、その声はノイズがかかったようにしか思えない、不自然な音だった。

 看護師はすぐに、誰かを呼びに行ったのか、部屋からいなくなった。慌ててその歩いていく方向を向こうとして首に痛みが走り、同時に何かが首に巻かれていることに気が付いた。全身に少しずつ意識が向いていく。右手は握ることができたが、左手は痺れていて感覚が無い。右足はギプスか何かで固定されているようだったが、左足は少しだけ動かすことができた。

 部屋の中には多数の機器が並んでいるようだった。それらのファンの音だろうか、相変わらず耳からはノイズのような音が聞こえてくる。

 どれぐらいの時間が経ったのか、まるで把握することができずにたが、扉が開いて、医師がやってきた。医師はこちらを見るなり「荒川さん、返事はできますか」とノイズのかかった声で言う。口の中がかさかさに乾いていて、「はい」と返事をしたつもりだったがどこまで伝わったのかもわからなかった。医師はそれからしばらくの間、看護師数名に指示を出して何かしていたが、やがて横に立ち、言葉を選ぶように頭を少し左右に一度揺らして、ゆっくりと口を開いた。「荒川さん、あなたは事故で左腕を肘の少し先から失いました。その自覚はありますか」

 左腕は痺れていたが、確かに存在するはずだった。右手をもう一度握ってみたが問題は無い。左手を握り締めようとするが、痺れたまま反応が無い。「あまり動かさないようにしてください、まだ縫合した場所が安定していません」と言った医師の言葉が理解できない。怪我をして、その縫合をした。頭がまだぼんやりとしている。口の中も乾いていて、自分の疑問を伝える術が無かった。こちらが黙っているうちに医師は一度いなくなって、看護師の一人が「大丈夫ですからね」と言った。「事故のこと覚えてますか」と看護師が言うが殆ど記憶になかった。気を失う直前のパイプのことだけは思い出せたが、どうしてこんなところにいるのか、ひとつも思い出せない。「事故で後続車に肘から先を完全に潰されちゃってね、もう残ってないの。気を落とさないでね、頑張って傷が癒えたらリハビリしましょう」と言う。肘から先にはいまだに何かが繋がっているような錯覚があった。返事をする気力は残されておらず、ただ黙って自分の左腕を見た。肘から先が無い。「怪我は命に別状無い範囲で済んでるから、元気になればちゃんと退院できますよ」とさっきの看護師が点滴に薬を注射器のようなもので注入している。初めて自分の現状を正しく認識した。それからはしばらくの間、看護師の右往左往を眺めながら、時折話し掛けられ、自分が集中治療室にいるのだということを知った。

 病院に最初に着いた身内は宇木だった。俺は少しだけ水を飲んで、やっと喋ることができるようになっていた。病室に入って俺のことを見た宇木は、特に表情も無くベッドに近付くと、「荒川さんのお父さんとお母さん、まだ日本に帰るまで時間かかるって」と言った。久々に聞いた人の声は、以前のようにノイズがかかってはいなかった。宇木はベッドの脇にある椅子を引き寄せて座ると、「何か持ってきた方がよかったかもね」と言う。「本当に、腕がなく、なってるって、自覚するまでに、時間が、かかったよ」と区切りながら言う度に口の中が引きつってしまう。「そうなんだ」「うん」「じゃあ、様子も見たしもう帰るから」「そう、忙しい、のか」「ううん、別に。ちょっと疲れちゃって」「ああ、すまん」「いいよ」と言うと宇木はそのまま病室を出て行った。意識を取り戻す前から病院にいてくれたのかも知れない。

 宇木が帰った後で、看護師が包帯を替えに来たが、特に会話もなく終わった。会社はどうなっているだろうか。自分が一人いなくなったぐらいで致命的なダメージになるような組織ではなかったと思う。上司は何故来ないのだろうか。上司の微笑を思い出した。上司は、俺を監視しようとしていた。

 去年の夏、上司が緊急の用と言って俺を呼び出した。駅からやや離れた場所にある俺の家までバンで迎えに来て、「休日なのにすまんな、ちょっと運ぶのを手伝ってもらいたいものがあるんだ」と言う。上司の私物を会社に運ぶのだろうか、俺は特に疑問も持たずバンに乗り、扉を閉めて、上司はすぐにエンジンをかけた。首都高速に乗ってから、上司は時折仕事の話をしたり、最近のテレビの話をしたりしながら、「話し相手がいないと運転しながら眠くなってしょうがないからな」と言う。免許を持っていない俺は交代することもできずずっと横に座ったままだった。車は随分と山奥深くへと入り、眺めていた景色の半分くらいは森林で、俺は少しだけ気分が良かった。途中からは殆ど対向車もおらず、上司は「いいドライビングだな」と言うが、その顔はあまり気分が良さそうではなかった。

 奥多摩駅の近くを通り、更に山奥へと向かって入り込み、いくつかの橋の最後に赤い手すりのある橋を渡り、倉沢のヒノキと書かれた看板の前を素通りしてから少し入ったところに車を停めた。上司はすぐに降りてバンの後ろから木箱を三つ取り出した。アスファルトの上に下ろされた時、ごとりという音がした。

 上司は額の汗を拭いている。「これ、中身は何が入ってるんですか」「それより重いから気を付けろよ。ほら、運ぶぞ」と言うと、上司は車の鍵をロックし、やや小さい木箱二つを持って立ち上がった。俺も残された木箱一つを持ち上げる。腕にかかる重さはかなりの負荷になった。上司はそのまま歩いて、すぐ近くにある山道に入って行った。石段が続いている。角度は急で、足で体を引き上げる度に強い負荷が掛かり、こんな重いものを持って通る道ではないと思った。上司は目の前を淡々と登っている。やがて石段は消え、山道が現れた。山道の左側には上への斜面が、右側には下への斜面が、かなりの急角度で伸びていた。落ちてしまったらただでは済まないだろう。度々蜘蛛の巣か何かが顔に付くのか、上司は何度も頭を振り切るようにして歩いている。山道はしばらく続いた。「少し、少し休みましょう」と言うが上司はまるで聞く耳を持たないように歩き続けて、その口からは、返事ではなく荒くなった息遣いが聞こえてくる。上司も疲労しているはずだった。少しずつ、上司の足踏みが不安定になっていくのが、後ろから見ていてわかった。やがて山道の分かれ道に辿り着いて、ようやく上司は足を止め、そこには倉沢のヒノキが左側の道にあるという看板が立っていた。「ここですか」という問いに上司は答えない。再び上司は少しだけ右側の道の奥へと歩いていき、山道が殆ど消えた場所で足を止めた。

 上司は俺に箱を並べて置くように指示した。そして「この辺でいいか」とやっと口を開いた。「何をするんですか。疲れたのでとりあえず休みましょう、その間に何をするのか教えてください」と言うと、上司は自分を手招きし、近付いた俺の左腕を力強く掴んだ。何事かと目を白黒させているうちに、上司が木箱についていたロックを外して次々開けていく。上司が運んだ一つ目の箱には人形の手足のようなものが入っていた。二つめの箱には人形の頭のようなものが入っていた。そして俺が運んだ箱には明らかに肉の断面の見える、胴体のようなものが入っていた。俺はより混乱した。最初の二つはともかく、最後の、俺が運んだ箱には明らかに人体の一部が入っていて、肉の断面には血がこびり付いている。血の気が引く気がした。上司が凄い力で俺を自分の方へと引き寄せた。混乱する俺の左手に、上司がどこからか出していた小ぶりな包丁を握らせ、そのまま人形の手足が入った箱の中身へ突き立てた。手が震えて、力が入ったままになり、脱力することができない。俺は包丁を突き立てた瞬間をはっきりと感じていた。肉だった。動物の肉に刃を突き立て、そして切り落とす時と同じ感触だった。しかし人間の皮膚が見える、人間の腕の手首に包丁が突き刺さっているのをようやく認識した。上司は何度か手首に突き刺している包丁を俺の手ごとごりごりとねじり、手首の筋か何かが切れる感触を味わうと、俺の手ごと包丁を抜き取り、次は横に置かれていた人間の胴体の胸に包丁を突き立てた。心臓のある場所だった。骨に当たったのか、包丁が硬いものに触れた感触がして、それをこじるように上司が俺の手ごと包丁を更に深く刺し込んだ。皮膚の内側で心臓が切り裂かれている。上司は強張る手ごと包丁を抜き取り、俺の手の平を強引に開くと、中にある包丁を指先でつまんで山の斜面に投げた。

 上司が微笑しながらこちらを見ているのに気が付いた。動転していて何も言うことができない。「もうどこにあるのか見えないな。あの包丁が見付かればお前も共犯だ、わかるな」と上司が言っている。共犯だ、という言葉の意味を理解するまでに時間がかかった。「こ、これはなんですか」と言っても微笑するばかりで返事をしない。上司は上着の後ろをめくり、ズボンに差していたらしい小型のスコップを二つ取り出した。「じゃあ埋めようか」と言って上司がスコップを地面に突き立て、土を掘り返しては斜面の下に捨てていく。次々と土が捨てられ、穴は見る間に大きくなる。上司は一度掘るのを中止すると、俺の強張ったままの手にスコップを無理矢理握らせた。凄い力だった。俺の指はそのままスコップを握り、強張った。上司が「ほら、掘れよ。お前が切り裂いた死体だぞ」と表情を厳しくする。「ぼ、僕は何もしてません」「しただろうが、お前は死体を切り裂いた。だから証拠を隠滅しないとな」「あ、あの包丁は」「もう見えなくなってるな。でもこの死体が見付かればいずれこの場所が捜索されて、包丁もじき見付かる。そうなればお前も終わりだぞ」と言って、上司は微笑して、再び穴を掘り始めた。視界が消えていくような感覚に襲われた。上司はしばらく一人で掘ると、やがて嘆息して立ち上がり、俺を再び凄い力で引き寄せると、握ったままのスコップを手の平ごと地面に突き立て、穴を掘るのを手伝わせた。「ここまできたらちゃんと手伝えよ。お前に責任を被せることもできるんだぞ」と言われ、俺は混乱して何も考えられなくなり、上司の力のままに穴を掘るのを手伝った。頭が痺れるような感触があった。

 何時間経っただろうか、やがてかなり大きな穴ができ、上司は木箱ごと死体を放り込むと、足を使って上の斜面から土をかき集め、乱雑に穴を埋めた。「来る途中に蜘蛛の巣が沢山張っているのには気付いたか。ここには殆ど人間が来ない。数十年前にこの奥にある集落の人口がゼロになって、その近くに住んでいた爺さんも一昨年死んだんだ。だからその集落の建築物も全て破壊された。もうこんな場所に来る人間は、さっきの倉沢のヒノキとやらを見に来る人間ぐらいで、その人間も、ここに来る途中の分かれ道で左に曲がってしまう。右の道、つまりこっちには誰も来ない。大丈夫だ、安心しろ。お前は共犯者だが、俺は何も言わないよ。だから大丈夫だ」


 病院の壁も、天井も、扉も見飽きたものになっていた。右足の骨折はとうに繋がって、何とか歩けるようになっているし、左腕の傷も随分と癒えていたが、退院までにはもう少し様子を見たいという説明を医師から受けていた。父と母が仕事の合間を縫って一度だけ見舞いに来たが、それからまたフランスへ仕事に向かってしまった。「人生は重荷を背負い続ける旅だ。少しの負担でへこたれていては先に進むことはできないぞ」とのことだった。最初の見舞い以来、宇木はやって来ていない。上司は連絡すらしてこなかった。

 やることもなく、ただ浪費するだけの毎日に疲れていた。可能ならば早く仕事に復帰したかった。入院生活の間に色々と考えたが、片腕で困る仕事は殆どなかった。キーを打てさえすればいい。以前に、両腕の無い人間が、足の指を使ってキーを打っているのを見たことがある。それに比べれば、片腕になっただけならどうということはないだろう。上司に連絡が取れればラップトップを持ってきてもらうことができたはずだが、今は片腕でキーを押す空想をして訓練することしかできず、どうにも手持ち無沙汰だった。

 昼過ぎになってようやく宇木がやってきた。「久しぶりだな」「退院は」と言う宇木は相変わらずこちらに興味が無さそうな素振りだった。もう少し心配してくれてもいいものだと思ったが、大袈裟に心配されるよりはまだ良かったかも知れない。「まだわからないんだ。わかったら連絡するよ」「別に連絡しなくていいよ。それじゃあ、用事があるから」

 宇木はそのまま帰ってしまった。明らかに不機嫌だった。思えば最初の見舞いから既に様子がおかしかった気がするが、何か気分を害するようなことをしたのか、まるで心当たりがない。宇木は無愛想だし、上司は連絡して来ず、両親も国外にいる。自分が孤独だということに気が付いた。入院してからというもの、接触する人間の殆どは医療関係者で、会話を交わすことも殆どない。携帯電話に上司への連絡先は入っていたはずだが、事故で壊れてしまっていた。同時に両親と宇木も連絡が取れなくなった。見舞いに三人がやってきたのは、偶然持っていた名刺か社員証から会社へ連絡がいき、それから会社に登録している緊急連絡先へと連絡がいったためだろう。ならば上司も連絡を取ってくるのが自然だが、それをしなかった。状況を把握しながら何週間も連絡を取りにこない会社にこちらから連絡を取るのも気分が悪かったので、名刺なり社員証なりを探してこちらから連絡することもしなかった。事故の時の所持品もダンボールに入れられて受け取ったままになっている。上司は俺が何も言わず死ぬことでも期待していたのだろうか。俺が死ねば、去年の出来事について口を割る人間はいなくなる。

 その日の夕方に診察があり、あと一週間で退院し、その後はリハビリのために通院することにした。そして、退院するまでの間、誰も見舞いに来ることはなかった。


 退院して家に帰ると、宇木が料理を作っているところなのか、キッチンから音が聞こえてくる。窓の外から見える桜の木は、もう青々と茂っていて、地面に濃い影を落としていた。キッチンまで行くとやはり宇木が立っている。「何作ってるの」と言うが宇木は包丁を動かす手を止めない。玄関の扉が開く音も聞いているだろうし、こちらに気付いていないとは考えにくい。「宇木、どうした」と言っても無視し続けていたが、そのまましばらくキッチンの入口に立っていると、宇木がゆっくりと振り返った。「おかえりなさい」と言う宇木は顔色が悪かった。「どうしたんだ、調子でも悪いのか」と訊くが答えない。「ちょっと話があるの。リビングに座って待っててくれる……」と言って、宇木は冷蔵庫に手を伸ばし、中から烏龍茶のペットボトルを取り出した。俺は先にリビングへ行くと、ソファに座って嘆息した。

 宇木が烏龍茶をグラスに入れてお盆で運んできた。俺の前に置かれた烏龍茶を一気に飲み干すと、「大変だったよ、誰も連絡をくれないから最初はどうしようかと思った。宇木が来てくれてかなり助かった、ありがとうな」「ううん、いいの」「本当に大丈夫か。顔色がかなり悪いぞ」「ううん……」と言う宇木が微かに震えていることに気が付いた。「どうしたんだ、疲れてるんなら休んだ方がいい。迷惑掛け通しだったから……」と言って宇木の側に行こうと立ち上がった途端、立ち眩みがした。宇木の姿が歪んで見える気がした。頭がぐらぐらして、そのまま立っていることができず、崩れ落ちた。宇木が近付いてくるのが見える。瞼があまりに重く、そのまま目を閉じた。


 目を覚ますと暗闇だった。自分がどこにいるのかわからず、周囲を手探りしようとして、両足と右腕をひとつに縛られていることに気が付いた。自由になるのは肘までしかない左腕だけだった。もぞもぞと動いてみると、全体を壁に囲まれていて、どうやら箱のようなものに入れられているらしいことがわかった。全身が時折がたがたと揺さぶられる。エンジンの音が聞こえてくる。箱に入れられて車で運ばれているようだった。助けを呼ぶために叫ぼうとして、猿ぐつわをかまされていることがわかった。気を失う前に宇木が俺に烏龍茶を飲ませていることは自覚していた。運んでいるのは宇木なのだろうか。

 かなり長い間、車は運転されていた。しばらくは手足を縛る縄を解こうとしたり、箱を開けるために体をよじったりしてみたが、どうやっても上手くいかないので諦めて、ただ黙って箱の中に横たわっていた。箱は木で作られているようだとわかった。宇木は何を考えてこんなことをしているのだろうか。俺が入院してからずっと様子がおかしかった。まるでわからない。箱が揺れて、箱の底と肩がこすれて痛かった。

 やがて車が止まったようだった。車の座席から人の降りる音がする。扉が閉められ、後ろの扉が開いた音がした。「おい、一旦下ろすぞ」「わかってます」

 上司の声と、宇木の声だった。聞き間違いではない。上司の微笑と、宇木の握った包丁を思い出していた。何故この二人が一緒にいるのか、今から何をしようとしているのか、混乱が続いた。俺が死体へとやったように、宇木の包丁が俺の手首に突き刺さり、心臓を突き破るのだろうか。

 乱雑にコンクリートの上へ落とされたのか、強い衝撃が全身に伝わった。上司と宇木の息遣いが聞こえてくる。それからしばらくの間、二人の声が聞こえない時間が続いた。時折車が通る音が聞こえている。長い移動で全身が痛く、まだ意識もしっかりと覚醒していない。徐々に周囲の音を聞き取ることができるようになっていたが、車が通る度、何故誰も俺に気が付かないのかと考えていた。まだ大声を出せそうにはなく、一度叫べば再び口を開くまでに時間が掛かりそうだった。箱の中でしっかりと回復を待ち、渾身の力を込めて助けを呼びたかったが、二人が帰ってくる前に実行する必要があった。もう少しだと思った。もう少しで助けを呼ぶことができそうだった。しかし「おい、起きてるか」という上司の声が聞こえ、助けを呼ぶことはできないのだと悟った。二人が帰ってきたのだと確信した。

 そのまま木箱の蓋を強引にこじ開ける音が聞こえた。何度もぎしぎし、ぎしぎしと耳元で音が響いている。車が通る音は聞こえなかった。ここで車が通りかかれば、不審な行動をする者として上司が通報され、俺が救われるのだと空想した。しかしそれが甘い考えであることは明らかだった。徐々に木箱の隙間から太陽の光が差し込み、眩しさに目を逸らすこともできないまま瞼を閉じて、改めて自分がまだ覚醒し切っていないことを思い知った。

 木箱が開けられると、外から上司がこちらを見ていた。宇木はいないようだった。全身がぐったりとしていて、そこかしこが痺れるような感覚があった。上司がこちらを見ている。上司は手に持っていた、少し錆のある小ぶりな包丁で縄を切り、俺を開放した。包丁。上司が俺の右脇に手を、肩を入れ、担いで立たせた。足元はおぼつかなかったが、上司に支えられていればなんとか自立できた。上司は俺を車の助手席に座らせた。宇木のつけている香水の匂いがした気がした。宇木はここに座ってここまでやってきたのだろうか。上司が運転席の扉を開け、座った。

 車内を少し見渡すと、どうやら前に上司と死体を運んだバンのようだった。後ろから吐息の音が聞こえてくる。見ると、宇木が横たわっていた。

 宇木の方に振り返ったままの姿勢を維持するのも難しく、俺は正面に向き直った。「なんで宇木がいるんですか……」「聞きたいか。ろくでもない話だぞ」

 俺は混乱から回復できずにいた。宇木は何がしたかったのか。何故上司がここにいるのか。

 しばらくの静寂があった。車内には宇木の吐息以外に音を立てるものはなく、その静寂を破るようにして上司が口を開いた。「お前の片腕が潰れてから会社に連絡があって、それからすぐにそこで寝てるお前の婚約者の宇木に連絡を入れたんだが、事故が相当ショックだったらしくてな、ちょっとおかしくなっちまったんだよ。なんかなあ、片腕を失ったことが信じられないとか、私が連絡を取るから会社からは一切連絡を入れるなとか、かなりどうしようもないことを言ってた。身内が連絡を入れるなと言ってるんだから反論もできずにいてな。病院に連絡を入れて、退院する時には会社に連絡を入れてもらうようにして、お前には取り次がないようにしておいた。すまんな、ずっと音沙汰なしで」上司の顔は真面目だった。再び静寂が車内を包んだ。

 宇木がいつか言っていたことを思い出した。『私は荒川さんの、安定したところが好きなの。大きな失敗をしない、誤りのない人生』まるで今の、片腕を失った自分のことを責められている気がした。あの言葉を少し否定しただけで、宇木はかぶりを振って声を強くしたのだった。

 上司が後ろを振り返って、左手で持っていた棒を振りながら言った。「どこから手に入れたのか知らんが、こんなもんまで用意してたよ。スタンロッド」棒の先でばちばちという音が鳴った。電気の走る、攻撃のための棒だった。「怪我をして片腕になったお前のことがよっぽど気に入らなかったらしくてな。薬でお前を寝かせて、用意したスタンロッドで何度も電撃を浴びせたらしいが、それでどうとなるわけじゃない。人間が死ぬほど強力な武器じゃないからな。むしろ寝ていたお前を起こす可能性の方が高かっただろうに、何度も繰り返したんだそうだ」そう言われ、全身のあちこちが痛む理由がわかった。「そこで丁度俺が家を訪ねた。退院してもう病院を出たという連絡が入ってたからな。余程焦っていたんだろう、宇木はリビングの扉も閉めずに俺を出迎えて、奥からお前の呻き声が聞こえてきたんだ。だから無理矢理押し入って、お前が寝ているのを発見した」

 宇木は今でも後ろで寝ている。「それから宇木は完全に混乱してな。私は悪くない、荒川さんはもう駄目になったんだってずっと言ってたよ。腕ぐらいでごちゃごちゃうるさい奴だ。結婚する前にわかってよかったな」と言って、上司が微笑した。「完全におかしくなってたから、俺は一度話を合わせることにした。お前を埋めるから手伝ってくれだのなんだのと言われて、車を出した。まだ死んでないのにな、ひどい話だ。お前を入れていた木箱は例の死体を入れていた余りだよ」

 俺の心臓が一際強く高鳴った。死体。包丁。俺を縛っていた縄を切ったのは包丁だった。錆があった。俺が死体の手首を、そして心臓を引き裂いた時の血液が付着した包丁も、今頃あれぐらい錆びているはずだった。「覚えてるか。周囲に見覚えはないか。ここはあの死体を埋めた場所だよ。宇木と一緒に埋める場所を一度確認しに行って、その道中で俺は宇木を後ろから殴って、スタンロッドを奪って気絶させた。手荒な真似ですまないが、しょうがなかった。その時、近くに落ちてたんだよ。さっきお前を縛っていた紐を切った包丁は、お前が死体を切り刻んだ包丁だ」と言って上司はどこからか包丁を取り出して、俺に見せた。確かにあの時の包丁だった。俺の指紋が付着した、共犯になった時の包丁だった。

 上司がこちらを向いた。「お前、前に死体を埋めた翌日から、一週間ぐらい有給を取ってたろ。家でずっと寝て過ごしていたことも知ってるぞ。お前の家に行って確認したからな」と言って、上司は微笑した。「あの時の死体、なんだと思う」上司は微笑したままこちらをずっと見ている。「あなたも人間を殺している。宇木も俺を殺そうとした。二人とも……ただの殺人鬼ですよ」「いや、違うね」「何が違うんですか」上司が声を出して笑った。「あの死体はなあ、宇木が俺に処理を頼んだものだったんだよ」後ろから宇木の吐息の音が聞こえてくる。「死体を埋める前にはお前の家に何度か遊びに行ったこともあったよな。その時から宇木とは時々連絡を取るようになっててな、宇木の弟が仕事で大きなヘマをやらかして、親にかなりの迷惑を掛けたらしい。それで殺した。お前の前では猫を被ってたみたいだが、宇木はお前の言うようにただの殺人鬼だよ」以前に見せた、宇木の完璧主義の片鱗が頭の中を巡っていた。失敗し、欠損すれば殺さなければならないのか。上司が微笑する。「だからさ、わかるよな」

 上司は身を乗り出し、座席の後ろで寝ている宇木の眼窩にスタンロッドを押し当て、スイッチを入れた。宇木の全身が痙攣する。「こいつは殺さなきゃならないんだよ」

 俺は長い間、上司が時折宇木の胸に、腹に、口中に、頚動脈に、頭頂にスタンロッドを押し当てて、弄ぶように刺激と痙攣を繰り返すのを眺めながら、宇木への愛が既にまったく無いことを確信していた。宇木は殺人鬼だった。「大変だったよ。宇木が自分の弟を殺してから、お前が会社で働いてる間に俺だけが抜け出して死体を分割して、一度俺の家に運んでからお前と一緒に埋めに行った。本当は俺が一人でやることになっていたんだが、婚約者のお前が素知らぬ顔をしているのが気に入らなくてな、共犯者になってもらったんだ」と言って、上司は微笑した。

 殺人鬼。包丁。


 上司と共に家へ帰り、気絶したままの宇木を二人で持ち上げ、背負って運び、部屋へ入った。上司が「風呂場に運べ」と言う。俺はその通りに風呂場へ行き、上司に手伝ってもらいながら、浴槽に宇木を寝かせた。何度もスタンロッドの電撃を浴びせたせいだろうか、宇木は大きないびきをかいている。上司が「ほら、忘れもんだぞ」と言って俺に包丁を手渡した。俺はまだ全身に、宇木から受けたスタンロッドの痛みが走っていた。包丁を握った右手が、震えて包丁を取り落としそうになる。

 ゆっくりと宇木のそばに座ろうとして、全身が痛いのだということをようやく自覚した。目を覚ました宇木も、上司から受けたスタンロッドの痛みを感じるのだろうか。しかしその時が来てはいけない。宇木は死ななければならない殺人鬼だった。俺は、目の前に眠る宇木のことを、確かに愛していたのだということを思い出そうとしていた。いつも静かで、声を荒げることのない、宇木のちいさなこころを思い浮かべた。しかしそれも全て、宇木自身の完璧主義と、攻撃的であり排他的な猟奇の精神を覆い隠すために作り出された偽装の性格だとしか思えなかった。宇木が笑う顔を思い浮かべた。殺人鬼の持つ、威嚇のような笑いにしか思えなかった。俺は本当に宇木のことを愛していたのか、それが全くわからなくなった。結婚しようとまでした相手だった。俺は今、ひとつのことしか考えられない。浴槽で眠る宇木の、殺人鬼の、生命を終焉させなければならない。

 俺は右手に握った包丁が、俺自身も気付いていないような、強い力で締め付けられていることに気が付いた。俺を殺そうとした人間を、殺されるよりも前に殺す。包丁をそっと宇木の首筋に当てた。これを強く押し込み、頚動脈を切り裂いて、血液が噴出する。それだけで済むはずなのだが、再び右手が震えていた。

 上司がからかうような調子で言う。「おいおい、自分が死ぬところだったってことを忘れるなよ」

 上司が何故そこまで人間の殺害を軽々しく扱えるのかわからなかった。包丁を首筋に押し込もうとした。宇木の皮膚が僅かにまがった。包丁は錆びていて、簡単に肉を切ることはできなくなっている。強く押し込まなければならなかった。何度も首筋から包丁を離したり、押し付けたりを繰り返していたが、やがて上司が声を張り上げた。「早くしろよ、ほら」と言って、上司は俺のひとつしかない手首を掴んで、宇木の頚動脈に突き立てた。

 あっという間だった。上司の力で包丁を引き抜いた。鮮血が見る間に吹き出していく。俺は全身が痺れて、一瞬で全ての感覚を失った気がした。脳の中を引っ掻き回したかのように混乱した。何かを考えようとしているが、まともな思考をすることは到底叶わなかった。俺の右手が跳ねるように動き、包丁を投げ捨てていた。口から音にならない声が出た。体の芯まで麻痺していきそうだった。長く正座をしていた時の足のように、全身が立った状態を維持するのにまるで役立たない。今にも自分が全て崩れてしまいそうだった。

 少しずつ、宇木の首筋から流れる血液の勢いが弱くなっていった。俺の下半身は噴出する血液で真っ赤に照っている。

 人間を殺した。人間の首筋に刃物を押し込み、その血液を奪った。生命を奪った。俺は確かに人間を殺してしまったのだった。かつて愛していたはずの相手を、完全に殺してしまった。

 クリーム色だった浴槽は半分くらいが真っ赤に染まっており、俺は全身の全てが感覚を失っていた。どれ程の時間が経ったのだろうか。もう血液は流れていなかった。今になって、麻痺していた自分が見ていた宇木の姿を思い出していた。宇木は首に刃物を押し込まれ、ぐぶっ、と言った声を何度かもらし、口からも血液を流し、そして目が開いていた気がした。スタンロッドで体のあちこちが痺れていながら、首に押し込まれた痛みで目を覚ましたのかも知れなかった。自分が見たはずの宇木の最期の意識、その真実は最早、永遠に知ることができない。俺は自分の息が上がって、全身が震えていることに気が付いた。過呼吸特有の、全身の筋肉が緊張する感覚があった。視野が外側から少しずつ失われていくのを感じた。視界に宇木の死体がある限り、永遠にこの麻痺から回復できないと思った。

 立っているのがやっとだった。「おい、早く片付けるぞ」と上司の声が聞こえてくるが、どこから話し掛けられているのか、まるでわからない。「おい、聞こえてんのか、このぐらいのことでいちいち壊れるなよ」

 上司が俺を揺さぶるのを感じた。ついこの間まで生きて、笑っていた宇木が目の前で死んでいる。横で上司が何か言ってるのが聞こえているが、その言葉を理解するだけの精神的余裕が無かった。上司がひときわ強く肩を揺さぶり、バランスを崩して倒れ込んで、宇木が、浴槽の壁に隠れた。しかし足元は血液で真っ赤に染まって、ところどころ、血液が凝固して赤黒く変色しつつあった。

 血液の強い錆のようなにおいが、暴力のようにあたりを蹂躙していることに気が付いた。宇木は見えないが、殺害の現実から逃れることはできなかった。下半身を包むジーンズが、死んだ宇木の呪いのように錆のにおいを放っている。宇木が死んだ。殺してしまった。

 上司が俺の目の前で、ぶらぶらと包丁を揺らしている。包丁。宇木を殺した道具を目の当たりにして、再び視界が押し潰されて消えていくような感覚を味わった。

 上司が俺の右手を掴んで引き上げ、包丁を握らせた。包丁が物凄い力で運動し、宇木の、既に切れ込みの入った首筋をまた切り裂いた。俺の喉の奥から、金切り声のような声が、細く、長く漏れ出した。俺の首ががくがくと揺れ、上司は何度も宇木の首筋に俺の手ごと刃物を突き立て、首は今にも切り落とされそうだった。赤い断面があり、もはや噴出することのない血液が水溜まりのようにでこぼこした傷口で光っている。呼吸ができなくなり、あとから喉が押し潰されたような感覚を持っていることに気が付いた。苦しさのあまり全身を無闇に動かしたが、直立することも座ることもできなくなっていた。風呂場の床に倒れ込んだ。宇木の姿は再び見えなくなった。

 上司の大声が、今度ははっきりと聞こえた。上司は「おい、やったな、お前の手柄だ」と言うと、狭まった視界の端で、黒い塊を投げた。目の前で重い音と、濡れたような音が聞こえた。宇木の頭部だった。首は乱雑に切り取られ、とても人間のものとは思えなかった。顔面は半分が血液で赤く染まっていた。髪に付着した血液は既に固まり始めていて、赤黒く染まっていた。俺はそれを見て、どういった感情によるものか、急に胸が高鳴るのを感じた。自分が浮かび上がっているかのような錯覚があった。俺の手には、包丁が握られたままになっている。指が痙攣していた。親指と人差指が強く包丁を握っている一方、小指と薬指が、自分のものではないかのように開いていた。宇木の頭部があった。俺は、それに向かって包丁を突き立てた。包丁は宇木の鼻の穴に入り、そのまま鼻を切り裂いた。もう一度突き立てると、今度は頬の皮膚に深々と入り込み、腕の動きによって眼窩へ向かって皮膚が切り裂かれ、眼球を傷付けて抜けた。自分の首が激しく震動している。俺はア行を並べただけのような発話を繰り返していた。自分の顔が紅潮したような感覚に襲われ、そのまま何度も宇木の顔面を切り裂いた。


 気付いた時にはリビングのソファで横になっていた。起きてしばらくの間は、自分が何故ここにいるのかも、そもそもここが何処なのかもわからなかった。服は洗ったばかりのものに着替えているようだった。

 長い間、部屋の中を眺めていた。その間に少しずつ記憶が戻ってきた。宇木は片腕を失った俺を否定し、殺そうとした。自分の弟が仕事で大きなミスをしたからと殺した。そして俺は、上司と共に、殺される前に宇木を殺した。血液の記憶が蘇ってくるようだった。突然上司の声が聞こえた。「おお、やっと起きたか」

 上司の声が何度も頭の中を駆け巡った。包丁を俺の手ごと握り、宇木に包丁を突き立てている様子を思い出した。今度こそ完全に共犯者だった。俺は宇木を殺そうとし、上司はその後押しをした。

 今にも嘔吐しそうな感覚が内臓を襲った。視界の隅に、近付いてくる上司の微笑が見えた。何故彼はこんなにも狂った世界で、笑っていられるのか、納得のいく理由が見当たらなかった。宇木の死体の、歪んで半開きになった目と口を思い出した。やはり宇木は、首を切られてから死ぬまでの間、意識が覚醒していたのではないだろうか。自分が確実に死んでいくという確信の中、首の神経が切られるまで切断の苦しみが続いていく。想像できそうになかった。あまりにも現実離れしている。

 上司は右手で顔面を覆って震えている俺の横にしばらく立っていたが、やがて俺の左肩に手を置いて、そっと囁くように言葉をもらした。「婚約者が死んでショックなのはわかるよ。でももう死んでしまったものはしょうがないだろ。殺したのは俺とお前だが、お前は殺されるところだったからしょうがなかった。わかるよな、安心しろ。俺は誰にもこのことは話したりしない。だから大丈夫だ」と言った。前に死体を埋めた時にも同じようなことを言っていたのを思い出した。密接な共犯者なのだから、俺だけを告発することはできないのは事実だが、上司の言葉の端々から感じるものは、優しい脅迫だった。

 上司は俺の肩から手を離すと、「じゃあ、とっととバラすか」と言って俺の右腕を担いで引き上げた。宇木の死体をこれ以上見ていたくなかったが、全身はいまだ言うことを聞かず、上司の強い力に抵抗することができなかった。

 風呂場の洗い場に宇木の頭が無造作に転がり、浴槽には首の無い体が血液を吸った服を着たまま横たわっていて、洗い場と浴槽には大量の血液が付着したままだった。宇木の生首が、歪んだ唇と乱雑に切り刻まれた傷口を持って、半開きの目からこちらを見つめている。急に心臓が締め付けられたようになり、息が上がった。上司は「まあ屠殺場みたいなもんだよな」と軽く言って落ちていた錆だらけの包丁を拾い上げると、「ほら、お前も手伝え」と言って、台所から持ってきたのか、新しい包丁を、脱力して動こうとしない俺の右手に握らせた。上司はそのまま腕まくりをし、浴槽の横に座り込むと、宇木の体の左肩を持ち上げ、包丁で力任せに服の上から関節へ刺し込んで分解していく。俺は全身の痛みを再び自覚したところだった。上司は数分ほどだろうか、時間をかけてようやく左肩を切断した。切断した腕を洗い場の頭の横に置いてから、上司は嘆息し、何もしない俺を責めるような目で見てから、首のない死体を浴槽から引き上げた。死後硬直のためか浴槽に寝ていた時のままの姿勢だった。上司が乱暴に洗い場へ肉体を置くと、浴槽に合わせて丸くなっていたためごろりと転がり、切断された首の中に溜まっていた血液が少しこぼれ、洗い場を更に汚した。

 上司はまたも俺の手ごと包丁を掴んで動かし、死体を切り刻んでいった。新しい包丁からは硬くなった肉体の筋を切る感触が伝わっていた。これまでと違い、自分が切り刻んでいるというより、上司のなすがままに切り刻んでいる気分だった。それよりも自分が簡単に環境へ適応していることに驚いた。心の奥底は麻痺したまま、世界を認識できるようになったとでもいうような感覚だった。

 死後硬直の死体を分解してしまうまで、長い時間が必要だった。風呂場から出る頃には、既に深夜に差し掛かっていた。上司は一仕事終えたかのような口振りで「はあ、やっと終わったな」と言っている。俺は心が完全に死んでしまうのを自覚した。何も感じられない。通常の人間は、人間を殺せば自分も死ぬのだと思った。上司の精神的タフネスは異常だった。殺しても殺しても死なない、無敵の心があり、俺はそうではない。上司は「あとはバラしたパーツの処分だけだな、着替えないとまずいから服を貸りるぞ」と言っていて、俺は無感動に頷いた。上司は勝手にタンスから俺の服を取り出し風呂場へ着替えに行くと、新しい服を着て戻り、「お前の血まみれの服もまとめて捨てるぞ、ゴミ袋あるか」と訊いた。本当に何も感じなくなってしまった。俺はリビング隅にある棚からゴミ袋を取り出すと上司に渡した。上司はそれを受け取りながら、「新しい服に血が付いてないかよく調べろ、もう一回山に行くぞ」と言った。


 数日が経ち、俺は宇木の両親の元を訪ねた。「左腕を失った荒川さんに対する罵詈雑言を並べてるけど、一時の気の迷いなんだ、嫌いにならないでやってくれ」と泣きつかれたが、俺は何も感じなかった。ただ淡々と宇木の失踪を告げ、捜索願を出すように促した。俺が宇木の失踪についても、両親の懇願についても何も反応を示さない様子を見て、すぐに両親の態度が変わった。もう宇木のことを愛してはいなかったし、そのことは充分に伝わったようだった。同じく連絡の取れなくなっているはずの宇木の弟については何も訊かなかった。俺はこれ以上宇木に関わるつもりがなかった。宇木を殺し、俺は死んだ。それで充分だった。


 仕事にはすぐに復帰した。片腕でどこまで仕事ができるだろうかと思っていたが、仕事の上ではキーボードを打つよりもものを考えている時間の方が長いために特に障害にならないことを知った。上司とは過去の話を一切しなくなった。俺はもういつ捕まってもいいという気分でいたし、何をやっても熱意を持てなくなっていた。上司が微笑している。俺はこのまま少しずつ熱を失って、冷め切って静かに死んでいくのだと思った。ただひとつだけ俺の心を高鳴らせるものが残されていたが、そのことはもう思い出すまいと決めていた。顔面を包丁で切り裂かれて、ただの肉に変わり果てた宇木の姿を。

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